信濃デッサン館で村山槐多に出会う

カーラジオのスイッチを入れるとラジオ深夜便「心の時代」が流れていた。
耳を澄ましていると、なにやら聞いた事のある地名や名前が出てくる。
窪島誠一郎氏がゲストとなって開館30周年になった「信濃デッサン館」の話をされていた。
もう、30年も経つのか・・・。
その頃の私は長野に店舗を構えていたので、東京と長野を毎週車で行き来していた。
関越道路が群馬藤岡までが終点になり、そこからは一般道を走りぬけ峠を越えて佐久に出ると、遠くに山並みが連なり眼下には田園風景が広がる、信州の原風景だった。
その日も、軽井沢方面に向かっている車中で地元ローカル放送を聴いていると、上田に「信濃デッサン館」なる小さな美術館が出来たとアナウンスしていた。
デッサン館と聞いて行ってみたくなりハンドルを切った。
上田市街から別所温泉に向かう小高い丘に緑の木々に囲まれた木造の建物が見えて迎えてくれた。上田の塩田平を一望できる絶好のロケーションに佇んでいる。
木造建築の信濃デッサン館に一歩足を踏み入れると、A4ほどの大きさに描かれたデッサンの数々が額に入れられ飾られていた。
そして、衝撃的な絵に出会ったのです。
25号ほどの大きさで隠れるように飾られていた絵には村山槐多「尿する裸僧」
驚愕して立ちすくみ金縛りにあったように身動きできなかった。
この日から、運命的に出会った村山槐多を忘れることはできない

頭の中は村山槐多で占めつくされ、食入るように村山槐多のデッサンを拾った。
その日を特別な日として、その後信濃デッサン館には数十回通った。
「鬼の線」と云われた村山槐多のデッサンは高い評価を受けている事も知った。
TVなんでも鑑定団の中で5号ほどの村山槐多の絵に3000万円の価値を見たときはビックリした。時の経過で億単位で取引されることも予想されると鑑定士は云った。
22歳で若くして夭折した天才画家村山槐多は現代画家の損失であったろう
山田風太郎「人間臨終図鑑」によると、風邪を拗らせた村山槐多は代々木にあるトタン屋根が風で飛ばされないよう石が並べられ雨漏りするアバラ家の部屋に横たわり咳き込んでいたとある。おなじ境遇にある才能ある若者が集まり、村山槐多の回復を願ったが、明け方に襲った強い雨風の音を聞きながら死んだ。
その時の様子を見守った友人がハガキにしたためた。そのハガキも展示されている。
内容を詳しく覚えていないが大きな文字で「槐多が死にました・・・」と書いてあった。
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信濃デッサン館館長の窪島誠一郎氏は知る人ぞ知る作家水上勉のご子息である。
私財を投じ若くして亡くなった画家の絵やデッサンを買い求め造ったとされる。
その後、信濃デッサン館に隣接する場所に戦争に狩り出され、失意のうちに亡くなった戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館された。
この「無言館」にも何度も足を運びました。
才能ある若者が戦争の犠牲になり、日本文化が滅びた。
誰も真似が出来ないと云われる村山槐多の力強い輪郭。シルクスクリーンかリトグラフがあれば欲しいと思っています。
館内には亡くなった直後の村山槐多のデスマスクも飾ってあります
安らかな可愛い顔をしているんです。
村山槐多が愛してやまなかった「稲生像」があります
その稲生さんを槐多は愛しくて告白の手紙をだしています。同性愛だったのか・・・
村山槐多は詩もいっぱい残しています。
詩人でもあったのですね
村山槐多の遺書。
第一の遺書
自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの
色を帯びて居る事を十五、六歳から
感付いて居ました。
私は落ちゆく事がその命でありました。
是は恐ろしい血統の宿命です。
肺病は最後の段階です。
宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、
引き上げようとして下すつた小杉さん、鼎さん
其の他の知人友人に私は感謝します。
たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、
私は地獄へ陥ちるでせう。最後の地獄にまで。
さらば。
あれから30年・・・か。
村山槐多に刺激を受け、岐路に立ち向かったはずの私は、余りにも乏しい才能は
蕾のまま花開くこともなく、ここまで生きて来たのがやっとの人生です。
多分に、この先もおなじだろうと思う。
















