思い出

台風とざくろ

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柘榴を頂いた。

時期おくれの台風18号は深くて痛い爪あとだけ残してアラスカ方面に走り去っていった。台風が来るたびに各地に甚大な被害をもたらす。自然災害は手の付けようがない。
小学生時分に住んでいたところは台風銀座と呼ばれ台風が発生するたびに暴風雨をお供にわがもの顔で挨拶もなくやって来た。そんな場所に住んでいた。

台風が近づくと父親は、いつもより早めに帰宅して納屋に保管してある何枚かの板を持ってきて、やおら窓ガラスの外側から目隠しするように、釘で打ちつけ隠していった。板で補強しないとガラス戸は建て付けが悪くて、少しの風でもガタガタと音がした。
真っ暗になった部屋は静かで、外からの風も聞こえてこなかった。
いつ、停電しても良いように部屋の角々にはロウソクが立てられ、停電になると兄弟で歓声をあげてロウソクに火を灯した。危険極まりで暴れまくる台風の怖さを知らない子どもたちにとって台風は歓迎すべき遊び道具のようでもあった。

暗い部屋にロウソクとくれば、なにやら秘密の基地を作ったようでワクワクした。
台風はいつも、庭の角地に植えてあった柘榴の木に大きく実をつけ、実が割れるころにやって来たように思うので九月ごろだったのかも。

庭には柘榴のほかにヤマモモやら夏みかんの木が植えられていたのは、特別な理由はなく犬や猫や数羽の鳩を飼っていたので、飼っていたペットや鳩が亡くなるたびに白い布で包んで庭に埋め、果物の苗木をその上に植えた。
果物の木の成長を眺めるたびに飼っていた犬や猫を思い出すこともあった。

その台風が過ぎ去った今日このごろは、八百屋の店先には、赤色で手榴弾のような形をした柘榴が並んでいる。わが家の庭先にあった柘榴も赤い実をつけて割れると食べごろだと教えられ割れるのを待っていた。
実の中は小さな粒々がぎゅうぎゅうになって押し込まれ指でパチンと割ったりしたが
子ども心に柘榴の実は美味しい!思い出はない。酸っぱい味が舌に残っている。

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トレーナーが消えた。

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VANの魅力にはまった寺子屋のころから愛用してやまない大事なアイテム『トレーナー』。
亡くなった父親の還暦の時と喜寿の時にも、お祝いとして贈ったトレーナー。

10月に入ると衣替えで朝夕が少し冷え込むと、いまもまたトレーナーを取り出して羽織ることは日常のことです、そのままの格好で仕事場に向う。手馴れた作業です。

本来であれば、セーターが好きで素材違いのクルーネックをたくさん持っていたが、仕事場で机の下に潜りこんだり、重い荷物を持ったりすることで、汚れが気になりセーターの袖を通すことをしなくなった。箪笥の肥やしと化している。
その中でも、セーターとして茅ヶ崎紡績が編み出したシェットランドの糸は名品中の名品であった。多色の撚糸で織られたシェットランドは家庭編み機が良く似合う。編み込まれた柄は見事な出来ばえでIVYの基本であるクルーネックのデザインに溶け込んでいた。
その名品であるシェットランドも化粧箱の奥の奥に仕舞われ、いつしか出番はなくなって行ってしまった。

また、トレーナーにも悲劇が訪れた。
愛着あるトレーナーも日々の汚れが目立つようになり、新たにトレーナーの新作でも買いに行こうと、シンプルな定番商品の宝庫としてユニクロを訪れた。
広い店内を一列、二列と棚を探して行ったが、ついぞトレーナーを見つけることが出来なかった。トレーナーは遂に時代から拒否されたようです。その代わり、ジップの付いたヨットパーカーは、はみ出さんばかりにうず高く積み上げられている。
価値が失われていったトレーナーは、どこに追いやられて行ったのでしょう。
淋しい限りです。

BIGIやらCOMME ÇA DU MODE(画像)とやらのトレーナーを買い続けたトレーナーが、世の中から迫害を受けて抹殺されてしまったようです。ヨレヨレになればなるほどに愛しくなるトレーナーが

オークションで探して、あれば良いのですが
あれほど軽くて丈夫で着やすい服はないようにも思うのですが・・・。

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行方不明の「峠の釜めし」を見つけた!

吸い込まれそうな青空に無数の千切った雲が広がっています。
昨夜の雨で、肌に伝わる寒さが日増しに感じる。
遠くから運動会の案内を知らせる花火の音も耳に伝わる。

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商圏30万人の胃袋を扱う、青果市場と魚市場が共催する秋の野菜・魚まつりが行われていた。九時の開店に遅れをとるかと八時過ぎには車の渋滞が始まり、財布を握りしめ並んで九時の開店をいまや遅しと足を鳴らしている。
高級魚でお馴染みの日本海ノドグロが3匹一皿1,000円とは安い!

「峠の釜めし」の幟を見つけた。
ひっそりと、隠れるようにオレンジ色の幟がはためいている。
懐かしい駅弁の登場です。長野新幹線が開通する前の特急あさまが唯一の交通手段だった信越本線で難所碓氷峠を登る為に上りは軽井沢、下りは横川駅で車両を連結する待ち時間を利用して横川駅で販売していた「峠の釜めし」は信越本線の名物でした。
なにしろ、全国駅弁大会で常にベストスリーに入る超人気がおぎのやの「峠の釜めし」です。

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長野駅始発6時15分の特急あさまに乗り込み、3時間かけて東京に到着します。
もうクタクタです。
大手町・新宿・千駄ヶ谷をひと回りして5時25分上野発特急あさまで長野に戻る、日帰りの出張が毎月2回で3年ほど続きました。

高地で盆地とくれば、もう冬の寒さが半端ではありません。凍え死にそうです。
人類が滅亡しても生き残ると云われるゴキブリが死滅する寒さです。
ガタガタと足を震わせて始発に乗り込み、すぐに温かいコーヒーを口に運ぶと生きている実感を感じます。

帰りの電車は、営業で動いて棒になった足を労わるように座るとすぐにウトウトと眠りたくなりますが、目指すは横川駅の駅弁を買うまでは・・・と、お腹の虫をなだめなることになります。横川駅に着くと6分間ほどの停車です。
着くや否や、各車両からは1,000円札を握りしめ怒涛の如くドドドッと降りてきます。
負けてなるものかと、人を押しのけ買い込むのが「峠の釜めし」900円です。
美味しかった。生きた心地がしたものです。
が、しかし、長野新幹線が出来て横川駅はなくなりました。

いまは、車社会となり上信越高速道路のサービスエリア「横川」で売れに売れているそうです。
形も味も、昔とちっとも変わらずに嬉しくなった。

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懐かしの路上検定

どんよりと生暖かい空気が漂っている。
滅多に車の行き交うこともない静かな通りに2台の検定車が止まっていた。2台の車には4人づつが乗車して時の来るのを待っているようだ。
時計を見ていた指導教官がやおら降りて、車の屋根に『検定中』の赤いランプが取り付けて検定車は左右に分かれて走り去った。
運転免許が手に入るかどうかのドキドキ感が伝わってきた。

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同級生の殆どは、受験も終わった高校3年の春に自動車教習所に通い普通免許を取ったようだ。この時代の普通免許には付帯免許として自動二輪(大型バイク)が付いていた。
親の仕送りがあるまでは絶対に車の免許は許さないとの家訓があり、同級生の免許を取得した時の歓声を遠くで聞いていた。そのために、親の脛をかじり続けた後の4年間も車には縁遠い生活をしていた。学校に行くには市電があったので不便を感じたことはなかったが、大学に入り夏休みになると友だちがバイクに跨り九州一周に出かけたり、中古で買ったHONDA N-360を乗り回しドライブに行く姿を見ると羨ましく思ったりした。

免許を手にしたのは社会人になり東京に出てきてからです。
会社の独身寮が大塚にあり、ちかくの池袋自動車教習所に通った。この場所は、巣鴨プリズンと呼ばれた東京裁判で被告となった軍人が拘置されていた場所だった。
2階建ての教習所は1階がまったくの初心者コースで、正面を向いてハンドルを握って時速3キロでも恐怖に感じた。少し慣れると2階の青空のコースが待っていた。

会社では、免許を取るための時間割を総務に提出していたので実技と学科が順調に進んでいった。が、ここで悩ませるある問題が起きた。
学科の講習で教官がこのような事を云った。
『赤信号で止まって数珠繋ぎであっても、青信号になると同時に動かなくてはいけない』と強調した。ロボットではないのだからあり得ないと疑問が湧いた。
このことが、トラウマとなって脳裏から離れず免許を取得することは出来ないと思って教習所に通うのを止めた。

総務からは免許はどうしたのかと、やんやの催促があり事情を説明すると笑い飛ばされ、原則論を聞いて機敏な対応も考えることが出来ない田舎でのぼんくらだと。怒られた。
いまでも、「・・・青色で一斉に走る」を忘れたことはない。

1ヶ月ほどのお休みがあったが、順調に回数を重ね運転も馴れてきた。
仮免の試験が行われた日にビックリする出来事が目の前で起きた。
仮免は路上運転が出来るようになるための教習所内でのコーステストです。
くじ引きで3番目に当たったので後ろに乗って、1番目、2番目の人の運転を眺めていた。当時の車はトヨタクラウンでハンドルの横に付いているコラムシフトのギア車です。
2番目の人が直角に曲がるクランクで縁石に乗り上げた。それで焦ったのでしょうね。踏み切りを過ぎてギアを4速のトップに入れようとして、力いっぱいコラムシフトのシフトバーを上から下に下ろした瞬間にシフトバーが根元からボキッと折れてしまったのです。慌てた教官は助手席からリモート運転で事なき得ましたが衝撃的なシーンでした。
その方は、当然のことながら仮免を落ちました。

車の往来の激しい都内での仮免許運転は怖いものがあります。意地悪をする車もありオドオドとして時速20キロをキープしてのノロノロ運転です。
教官って・・・忍耐ですね。1にも忍耐、2に我慢、それ以外なにものでもないです。こいつ、と思いながら助手席にいて座り殴りたくなることもあるでしょうに。

路上での卒業検定の時は、池袋周辺は大雨でした。
最悪の卒業検定です。それでも、馴れた道を走り、左折する決められた場所が近づいてきました。そこを曲がると教習所が目の前です。こころ踊る瞬間です。
ところが、目の前を走っていた車が停車したではないですか、雨の中、右側を走る後続車が気になり追い越すことも出来ません。検定する教官はストップウォッチをニラメッコです。
はい!時間オーバー。
あえなく沈没してしまいました。

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ペールギュント 第一組曲「朝」

長いあいだ、埃と蜘蛛の巣で機能しなくなった脳の片隅に
こびりついて離れなかった問題が解けました。
幼いころから、NHKラジオから流れて来る、爽やかなこの曲のタイトルが
分からなくて、その度に、脳はストレスを起して破裂寸前。
口ずさむことは出来ても、誰に聞くことも出来ずにいたのです。

多分、この曲は誰もが知っている有名な曲なんだと思うのです。
今朝のラジオから、しばらくの間、音楽をお聞きくださいと云って
この懐かしいメロディが流れてきたんです・・・・あぁ~このタイトルが
私の心を察してか、曲の終りに曲名を云ってくれました。
咽喉の奥に刺さった小骨が、ようやく取れた感じなんです。
なんだか、感激した1日です。スッキリしました。

ペールギュント 第一組曲 「
組曲と云えば「展覧会の絵」しか思いつかないクラシック音痴の私です。
今度は、しっかりと脳裏に刻んでおこうと思います
曲名が分かっただけで嬉しくなったのに続いて・・・。
やはり、NHKラジオと聞けば、何と云っても「ひるのいこい」でしょうか。
今でも、続いているのかどうかは分かりませんが。
お昼の代名詞にもなった名曲ですね。

これほど、脳裏に刻まれ愛された曲も少ないのではないかと思っています。
田舎の親戚は、山ごと抱えてミカンの栽培をしています。
忙しくなると、親戚は狩り出されてミカンの収穫に精を出します。
お昼になると、大声で集められ、広く敷いたゴザの上にはおにぎりやら弁当が並べられ、まるでハイキングそのものです。
そんなひと時にも、いまや化石となったトランジスタ・ラジオからは、12時の全国ニュースのあとに聴き慣れたテーマ曲に乗って「ひるのいこい」が始まるのです。

日本各地のニュースには、必ず「ふるさと通信員」からのハガキが読まれるんです。
漁業やら農業に関する日常の話題が生の声として放送されました。
なりたかったですね。ふるさと通信員に・・・。

高度経済成長時代にエコノミックアニマルと世界中から揶揄された、あの時代でも お得意先に行くと、時間が時間だからと云って、お茶を出されて食事が終わるのを待っているあいだにも、待っている部屋にはラジオから「ひるのいこい」が流れていました。
懐かしさのあまり、久し振りに田舎に電話でもしようかなと思ったものです。
気が変わらないうちにと、お得意先を出ると、すぐに新宿京王デパートの通路には、2~30台も並んでいた赤電話に飛びつきました。
どの赤電話も10円玉を握りしめたサラリーマン諸氏でいっぱいです。
そんな、赤電話の中に1台だけ10円で長距離電話が掛けられました。
故障しているの赤電話なのですが、知っている人は知っているで、その赤電話だけは他の赤電話が空いても並んでいました。
ただし、コツがあって10円玉を入れて、先ず市外局番の"0"を回さずに"9"を回してジーコジーコと回したダイヤルが戻ってきた瞬間に、タイミングを計りながら右手で受話器のボタンを押すんです。
そうすると、何故か・・・"0"として認識するようなんです。
あとは、普通どおりにダイヤルをすると繋がりました。
薄給で泣いているサラリーマンの節約術だったのでしょうか(悪知恵だったでしょうか)

ペールギュント「朝」が分かって、そんなことを思い出してしまいました。

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雨の摩天楼は嫌い・・・

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私にとってはジャックと豆の木を彷彿させる摩天楼。

降りしきる雨の中をトボトボと東京出張の始まりです。
改札口を出ると、コンコースの出口では、ひと塊の集団があちらこちらに出来ています。傘を差さないで行こうか、どうしようかと悩んでいるみなさんの頭には噴出しが現れて、傘を買おうか、いや止めようかと文字が踊っています。

酸性雨によって、生茂った森の緑もか細くなり、枯れ木に向って驀進中の私は、これ以上のリスクは負えません。素早く500円の透明の傘をゲットします。
透明の傘を見る度に、東京ドームの前身であった、天然芝の後楽園球場を思い出します。野球界の至宝と云われたミスタープロ野球こと長嶋茂雄の引退セレモニーがあった場所です。その後楽園球場では、雨が降ると売店には直径50センチほどの透明な傘が売られていた。まさに一人用の傘です。
雨の後楽園に行ったことがあり、100円をだして、いつもこの傘を買っていた。
雨の中での野球を観戦するには、ベストアイデアで発明賞をあげたいほどの傑作な傘でした。

雨と云えば、新宿に鈴源なる傘屋があった。
にわか雨が降るたびに、一日何十万人・何百万人に通行を誇る新宿地下街にワゴンに積み込んだ傘を販売していた。
その当時から、鈴源の傘はひと雨100万円と云われると噂が流れてきた。
新宿駅ビルに入店していた鈴源は傘1本で勝負して、月の売上が3000万円を越す売上表を見せられたときは、ひと雨100万円を納得した。
透明な傘が主流となった今では、ひと雨100万円は懐かしむ過去の栄光として語り継がれていくのであろう。

仕事を終えると、出張のたびにお世話になる社会人時代の友人宅に身を寄せる。
友人と酒を酌み交わし、昔話に花が咲く。
辛く、厳しい過去でも笑い話として部屋中を笑い声が響き渡る。

しかし・・・。
友人宅に行くには、いつも勇気と覚悟がいる。
絶景な眺望が自慢の彼の部屋は32階の高さにある。ベランダに出て下界を望むことは決してしない。下を見ると、おいでおいでと手招きされているように思えて、足が竦む。
地震があったらどうしようと、未知への恐怖が脳裏をかすめ、眠れぬ夜を過ごすことになる。
その為にも、必死になって酒を飲み前後不覚になることを願うんです。

雨の日は、下界がかすんで見える高層マンションで格安で提供されても遠慮する。
せいぜい6階ほどの高さが似合っています。
死へと急ぐことはしたくない。それでなくてもゴールの灯りが時たま見えます。

3度目のヨーロッパ出張の時に、アラスカ上空で機体が揺れ、余りの恐怖にここで下ろしてくださいと叫び、笑われた経験を持っています。

無事に、この地に帰還した。
おやすみなさい。

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母の日に想う

Haha

5月10日は母の日。

毎年、母の日が近づくと、母からの電話で欲しいものが伝えられた。
欲しいものの殆どが、詩集やエッセイ集だった。
母が好んで詩を覚え、ファンだったサトウハチローの詩集は全巻揃った。
その母も、昨年暮れに天国に旅立ち、母の日に贈ることが出来なくなったのは寂しい。

お墓参りが趣味だった母の影響で先祖霊に手を合わせるのは、ごく普通の日常だった。
中学に入ると、ある目的があって高校は薩摩の寺子屋を希望した。
成績の悪い私は難関だった薩摩の寺子屋に入るために先祖霊にすがる事にした。

晴れて合格出来ますように・・・合掌。

決めた、その日から仏壇にお花の水替えとご飯を上げる役目になった。
花は枯れそうになると、庭に出て花を切り入れ替えた。
飽き性の私が、中学の三年間、仏壇の花の水替えをやり通したのは見事と云うしかない。
そのおかげなのか、目標とする寺子屋に補欠で滑り込んだ。

神様や先祖霊に約束すると大変です。
その約束が習慣になっているものを断ち切る約束ほど効き目が大きいと云われる。
神様は願いは聞いてくれるが、即効性がないので辛抱しきれない。
ついに願いが叶わぬと思って、約束を反故にする事が何度も出てくる、その度に神様は根性のない奴だと苦虫を噛み潰しておいでのようです。
「神様は約束は守りますよ。しかし、それはあなた次第です」と云われる。
辛い修行が必要なのですね。

・・・約束。
母との約束がある。遺言と云って良いものだ。
約束に向けて、思いはあるのだが遅々として進んでいない。
神様にお願いはしてあるのですが

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行方不明になったウサギ

Usagi

       雪国の野うさぎ

昼休みの時間にウサギが噛み付いて困ると云った話があり、ウサギの耳を持って持ち上げて良いのかと云った話題が広がっていた。
ウサギには並々ならぬ悲しい思い出がある。

  玄 関に通じる庭先から大きい物音が聞こえて来たのは寝静まった深夜の1時ごろだった。誰よも先に飛び起きた母は玄関の戸を開けて目指す場所に走った。
家族全員が起きて来て暗闇の中で灯りを求めた。

小学3年生の私は学校から生まれたばかりのウサギを貰ってきて親に懇願して飼うことになった。父は日曜大工でりんご箱より大きい小屋を作り、すぐに取り外し が出来る金網を張り、小水がきれいに流れるように右奥に小さな穴を開け斜めに設置した。

これで家庭菜園の肥料が出来たと母は笑っていた。
小動物を飼うのは趣味みたいなもので、ただ飼うだけではなくて躾や仕込をする事は得意だった。すぐにウサギを部屋に上げて遊んだ。
トイレに行くたくなる素振りを見せると、すぐに抱えてトイレの横に用意した新聞紙を敷いた洗面器の中に入れて用を足すのを見ていた。
パチンコ玉のようなコロコロとした真ん丸い糞がいっぱい転がっていた。
何度か繰り返すうちに、ウサギは独りで洗面器のトイレに行き、用を足していた。
ここまで来ると、部屋にあげても部屋を汚す事がなく、安心して遊ばせて良かった。

学校から戻ると、カバンを放り投げ、鎌を持って近くの土手に行き、ハコベや乳草を取り、八百屋に行って人参の葉っぱを頂いて来ることが日課になった。小便は不思議と洗面器の中ではしなくて、いつも小屋でしていた。ウサギの小便はとても臭いです。鼻を突く強烈な匂いがします。
その小便は斜めになった床から大きなブリキ缶に落下して家庭菜園の肥料となり家庭菜園で作ったナス・キュウリ・オクラが美味しく実った。
有機栽培だと云って母は喜んでいた。

春になると、ウサギを篭に入れて、土手近くの田んぼに行き、レンゲソウが咲き乱れる田んぼの中で解き放ち、食べ放題の世界を堪能させた。
その頃の私はレンゲソウの中を飛び跳ねるウサギを見ながら、レンゲソウの花に群がる蜜蜂をパチンと両手で叩き仮死状態にして蜜蜂の密を吸っていた。
天然の蜂蜜だった。
深夜にウサギ小屋から音がして・・・

家族みんなが可愛がっていたウサギが心配で飛び起きたが、金網が外れていたのでてっきりやられたと思った。しかし、懐中電灯を当ててよく見ると隅っこに小さく背を丸めて震えていた。
その夜は、抱きかかえ、ウサギと一緒に寝た。
あくる朝、母は社宅の隣に住む家に行き、談判していた。
この家には大型の秋田犬を飼っていていつも吠えていたので狙いを付けて間違いがないと母は怒鳴り込みに行ったようだ。
今度から首輪を放さないと約束してきたと云っていた。
何しろ、秋田犬の持ち主は市民からの苦情が一番怖い市長さんのお宅。

ウサギの成長と共にウサギ小屋も大きくなり、次は婿取りでもして子どもを産ませようと計画をしていた矢先に、ウサギ小屋からウサギが忽然と姿を消した。
母は仕事も忙しい振りをして何も云わなかった。
いつまでも泣き叫ぶ私を見て・・・「どうしても、お父さんの仕事で必要になった」と云った。
家族みんなで、あれほどに可愛がったのに、静まり返った部屋の片隅で泣き続ける私がいた。

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辛い火事のニュース

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テーブルに地図を広げて、コンパスで計っているとローカルニュースで火事があり焼死された方が2人いたとアナウンスしていたので、チラッと横目で画面を眺めてみると、亡くなったであろうと云う方の名前が出て、ビックリした。あの方ではないかと、思い当たる節がある。

3年ほど前に、都合で会合に出られないので提出する書類を預けたいとの電話があり、住所を頼りに車を走らせ、仕事場を兼ねた大きい家を訪ねた事がある。仕事も立て込み、ご面倒を掛けますがお届けくださいと一通の書類を預かった。その時以来、お会いすることなく3年が経過した。会合でお会いする事も少なくなり、お元気であればと・・・気にしていた。

滅多にローカルニュースに注意を払って観ることは少ない。
まして、事故や火事のニュースは聞き流している。何かの偶然が引き合わしたのか。すぐにインターネットで住所検索を行い、間違いないことを確認した。
翌朝、一度訪ねた家に車を走らせる。
あの、3年前に伺った2階建ての大きい屋敷が焼け落ちて無残な姿を晒している。1本の柱も建っていない。
近所の方に聞くと、午後9時ごろ、ドーンと音がして火の手が上がり、消防車が来たときは、すでに手が付けられなく延焼を防ぐのがやっとだったと聞いた。2日経った今日の地域の新聞でも原因はまだ分からないと出ている。

すぐに、私の知る限りの会合に集まる面々にメールを打った。合掌。

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遠くでサイレンが聞こえる

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陽射しが西に傾き、夕日を形成しようとする夕暮れに遥か遠くの方から
消防車のサイレンが、けたたましく鳴り響き、1台、2台と走り去っていった。
こんな時間に火事とは気の毒である。空に染まるのは夕日の茜色だけにして貰いたい。公園脇の高台に登り周りを見渡したが赤い炎も白煙も見つけられず、ボヤていどだったのかと、少し安堵した。
何よりも、火事と聞くだけで、過敏になり怖さを感じてしまう。

もう20年以上も前だが、原宿に住んでいる時分に遠目にもはっきりと、赤い炎が立ち上り空を赤くしていた。時を同じくしてヘリコプターが群れをなして旋回しているのが見えた。これが、大惨事となったホテルニュージャパンの火事の瞬間だった。寝タバコ一本が、空を染めるほどの大火事になったことを知ると身震いした。

小学4年生だった私は、学校から帰ってくるとカバンを放り投げて近所の友だちと野っぱらに出かけてキャッチボールに興じて遊んでいた。
その日も、泥んこになって帰ってきた私を見て、母は「なんしよっとか、はよ、風呂にはいらんとか!」と叫んだ。云われて、そくさくと薪が赤々と燃えたぎる釜戸を横目に湯船に浸かった。
台所からはプ~ンとカレーの匂いが漂ってくる。
今日は大好きなカレーの日なんだなと・・・思ったに違いない。
風呂から上がると、食卓には帰宅の遅い父を除いた5人分のカレーが並べられヨダレが垂れそうな美味しい匂いが充満していた。
食べ始めると口の周りはまるでデンスケのようにカレーをいっぱい付けながらお代わりをしたのではないか。

その日の事は良く覚えていて、珍しく早い時間に父が仕事から帰ってきた。

父は着替えると、食卓に着き、家族全員が揃った久しぶりの食事を囲んだ。
カレーを口に運ぼうとしたしたその時に、父は急に「臭い!」と叫ぶや否やすくっと立ち上がると、父は勢いよく格子戸を開けた。
格子戸の隣はクリーニング屋でそのクリーニング屋とは一間ほど離れた隣同士になっている。

開けた瞬間に、真っ赤な炎が突風となって我が家に入り込んだのを家族全員が見た。
すぐに、父は戸を閉めて、大事なものを持ってすぐに逃げろ!と大声で叫んだ。
この時の火事は、この地方の三大大火事として今でも語り継がれていて、木造建築のこの時代、10数軒が全焼したようだ。
それにしても、父の帰りが遅かったらどうなっていたのか、不幸中の幸いであったのか、父を早く帰宅させようとする何かが働いたのには違いない。

小学4年生の私にとって、大事なものとは教科書の入ったカバンしか思いつかなかったようだ。カバンの中に机の上にあったものを詰め込んで弟の手を引いて裏の玄関から走って逃げた。全員無事だったが、炎に包まれた我が家は陥落して隣家に移って行った。
炎の行方を呆然と見送り、重い足取りで親戚の家に向かった。

次の日は、家族全員で火事の現場に行き、太い柱と梁だけを残して、跡形もなく無残な姿を晒している我が家を声もなく眺めていた。
着る服がない、大事な宝箱がない・・・と、思い出すごとに涙が溢れて泣きじゃくった。

ただ、この火事で、とても不思議な事が起こった。
母は小学校の教員をしていたが、縫い物が得意で和裁もしていた。
お願いされると断りきれずに預かり、和服を縫っていた。
この時も、預かりの和服があり、母はただただ祈ったと云います。
この和服は市長夫人からの依頼の品物で母はとても気にしていて、持ち出せなかった事を悔やんでいた。
ところが、焼け跡に立っている黒焦げになった太い柱の真ん中ほどに風呂敷包みがぶら下がって見える。急いで駆け寄ると、その風呂敷包みだけは、焼けることなく煙の匂いもしないで無傷で見つかった。風呂敷の中には預かっていた和服が入っていた。
奇跡としか言いようのない出来事があった。
小学4年生だったので、仔細は不明だが、このような話を後日談として母に聞いたことがある。神さま・仏さまが助けてくれたと云って母は喜んだ。

火事はすべてのものを一瞬にして失います。
この時も、逓信省(郵政省)に勤めていた祖父が大事にしていた珍しい切手の数々が灰になったと祖母が嘆いていた。

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