陽射しが西に傾き、夕日を形成しようとする夕暮れに遥か遠くの方から
消防車のサイレンが、けたたましく鳴り響き、1台、2台と走り去っていった。
こんな時間に火事とは気の毒である。空に染まるのは夕日の茜色だけにして貰いたい。公園脇の高台に登り周りを見渡したが赤い炎も白煙も見つけられず、ボヤていどだったのかと、少し安堵した。
何よりも、火事と聞くだけで、過敏になり怖さを感じてしまう。
もう20年以上も前だが、原宿に住んでいる時分に遠目にもはっきりと、赤い炎が立ち上り空を赤くしていた。時を同じくしてヘリコプターが群れをなして旋回しているのが見えた。これが、大惨事となったホテルニュージャパンの火事の瞬間だった。寝タバコ一本が、空を染めるほどの大火事になったことを知ると身震いした。
小学4年生だった私は、学校から帰ってくるとカバンを放り投げて近所の友だちと野っぱらに出かけてキャッチボールに興じて遊んでいた。
その日も、泥んこになって帰ってきた私を見て、母は「なんしよっとか、はよ、風呂にはいらんとか!」と叫んだ。云われて、そくさくと薪が赤々と燃えたぎる釜戸を横目に湯船に浸かった。
台所からはプ~ンとカレーの匂いが漂ってくる。
今日は大好きなカレーの日なんだなと・・・思ったに違いない。
風呂から上がると、食卓には帰宅の遅い父を除いた5人分のカレーが並べられヨダレが垂れそうな美味しい匂いが充満していた。
食べ始めると口の周りはまるでデンスケのようにカレーをいっぱい付けながらお代わりをしたのではないか。
その日の事は良く覚えていて、珍しく早い時間に父が仕事から帰ってきた。
父は着替えると、食卓に着き、家族全員が揃った久しぶりの食事を囲んだ。
カレーを口に運ぼうとしたしたその時に、父は急に「臭い!」と叫ぶや否やすくっと立ち上がると、父は勢いよく格子戸を開けた。
格子戸の隣はクリーニング屋でそのクリーニング屋とは一間ほど離れた隣同士になっている。
開けた瞬間に、真っ赤な炎が突風となって我が家に入り込んだのを家族全員が見た。
すぐに、父は戸を閉めて、大事なものを持ってすぐに逃げろ!と大声で叫んだ。
この時の火事は、この地方の三大大火事として今でも語り継がれていて、木造建築のこの時代、10数軒が全焼したようだ。
それにしても、父の帰りが遅かったらどうなっていたのか、不幸中の幸いであったのか、父を早く帰宅させようとする何かが働いたのには違いない。
小学4年生の私にとって、大事なものとは教科書の入ったカバンしか思いつかなかったようだ。カバンの中に机の上にあったものを詰め込んで弟の手を引いて裏の玄関から走って逃げた。全員無事だったが、炎に包まれた我が家は陥落して隣家に移って行った。
炎の行方を呆然と見送り、重い足取りで親戚の家に向かった。
次の日は、家族全員で火事の現場に行き、太い柱と梁だけを残して、跡形もなく無残な姿を晒している我が家を声もなく眺めていた。
着る服がない、大事な宝箱がない・・・と、思い出すごとに涙が溢れて泣きじゃくった。
ただ、この火事で、とても不思議な事が起こった。
母は小学校の教員をしていたが、縫い物が得意で和裁もしていた。
お願いされると断りきれずに預かり、和服を縫っていた。
この時も、預かりの和服があり、母はただただ祈ったと云います。
この和服は市長夫人からの依頼の品物で母はとても気にしていて、持ち出せなかった事を悔やんでいた。
ところが、焼け跡に立っている黒焦げになった太い柱の真ん中ほどに風呂敷包みがぶら下がって見える。急いで駆け寄ると、その風呂敷包みだけは、焼けることなく煙の匂いもしないで無傷で見つかった。風呂敷の中には預かっていた和服が入っていた。
奇跡としか言いようのない出来事があった。
小学4年生だったので、仔細は不明だが、このような話を後日談として母に聞いたことがある。神さま・仏さまが助けてくれたと云って母は喜んだ。
火事はすべてのものを一瞬にして失います。
この時も、逓信省(郵政省)に勤めていた祖父が大事にしていた珍しい切手の数々が灰になったと祖母が嘆いていた。